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「建築の旅」41

2023.06.09建築の旅

東京から京都に移り住んだのが今から35年前。
大学で講師を務めながら、設計の仕事を始めましたが、そのころはほとんど依頼がなく暇だったので、日本の建築や庭園の名作をよくみにいきました。
お見せするのはその当時に撮ったスライドです。

歴史の古い順に紹介しましょう。
まずは法隆寺から。
奈良は壮大な建築の都です。
古建築を見るなら奈良が一番です。京都にも古いものは沢山ありますが、建築は圧倒的に奈良です。
奈良が建築の都なら京都は庭園の都と言えるでしょう。京都にはそれほど素晴らしい庭が沢山あります。
別な言い方をすれば、奈良は男性的で京都は女性的な都です。

日本で最古の五重の塔ですが、最も美しい塔でもあると思います。
野屋根(屋根裏に隠された構造体)がなく、見えているものが全て建物を支える構造であるという、嘘、偽りのない潔さが全身から感じられるところがこの建築の魅力ではないかと思います。
軒の反りが緩やかで美しいですね。
五重の塔自体は中国大陸から輸入された様式ですが、軒反りが緩やかなのは日本独自の形です。雨が多い日本の気候に合わせたのでしょう。

これは伽藍の四周に廻らされた回廊です。エンタシスがかかった柱と、柱梁で構成される縦横のプロポーションが美しいですね。
この正方形が少し上下に縮まった形はとても安定感があり、京間の間口と内法の関係にも通じる、普遍的な日本のプロポーションなのだと思います。

奈良の北東の山中にある浄瑠璃寺。
大好きな寺の一つです。平安時代になると建築がより自然と一体化し、同時に庭園も含めて浄土を表現するようになります。

これは室生寺です。
シヤクナゲが咲く時期に行くのが一番ですね。元は平安時代の尼寺というせいもあり、とても女性的です。急峻な地形に沿ってつくられた伽藍が美しく、変化に富んでいます。

近くには長谷寺もあります。
ここは室生寺より雄大で、別な魅力がある寺です。


次は鎌倉時代、重源がつくった東大寺南大門です。
源頼朝の命を受けた俊住坊重源は、平重衡によって焼土と化した東大寺の伽藍を短期間で再興します。
当時近畿一円の山の木は切り尽くされてしまっていて用材となる十分な量の巨木がありませんでした。そこで重源は寄付金集めのための勧進を行いながら用材を探すための全国行脚の旅に出ます。

そしてついに山口県の周防の深い山中に手付かずの檜の巨木の森があることを突き止め、その河口に港町までつくって用材を切り出し、瀬戸内を通って奈良に運ばせます。
そして当時最先端だった宗から陳和卿という建築技師を呼び寄せ、彼の指揮のもと、それまでとは全く異なる建築様式で伽藍を再興するのです。
当時の建物は南大門しか残っていませんが、その豪胆さは平安時代の繊細な様式とは違い、武士の時代を象徴するものだったことが容易に想像がつきます。
その大胆さゆえに、貴族たちからは嫌われたのでしょう。鎌倉幕府が消滅するとともにこの様式も急速に廃れてしまいます。

現在の大仏殿は江戸時代のものですが、重源が再興したものはさらに規模が大きなものでした。

これが今のお堂の模型。
そしてこれが重源の大仏殿。
こちらのほうが圧倒的に雄大で美しいと思いませんか?

私は日本建築史上で最強の建築家は重源だと思っています。それほど革命的な建築様式だったと言えるのではないでしょうか。
ちなみに2番手は城郭建築の様式を発明した織田信長。3番手は草庵茶室の様式を確立した千利休です。

この写真は重源が手がけたもう一つの現存する建築、兵庫県小野市にある浄土寺浄土堂を、当時教えていた京都造形芸術大学の一期生たちを連れて見に行った時のもの。1992年ごろでしょうか。

このお堂は内部空間こそが素晴らしいのですが、撮影禁止なので残念ながらスライドがありません。

ちなみにここは1974年、大学2年生の時、授業で二週間ほどかけて隅々まで実測し、図面化した思い出のある建築です。
私は矩計図を担当したのですが、部材寸法が全て標準化されていて、まるで近代建築のように合理的に設計されていることがよくわかりました。
その合理性を持ちながらも、一方で、内部の現しの構造体が全て朱色で塗られているために、夕方西日が入ると中央に立つ金色の阿弥陀如来像が真っ赤な光りに包まれて、鳥肌が立つくらい美しく、感動したのを、今でも鮮明に覚えています。

日本の建築で内部空間が最も素晴らしいのが、ここ、浄土寺浄土堂であり、構造的合理性と建築的感動が相反するものでないことを教えてくれたのもこの建築ではないかと思うのです。


では次回は庭園の都、京都です。

お楽しみに。

(横内)