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「建築の旅」6

2022.10.25建築の旅

みなさん、こんにちは。
今日はシカゴ郊外の高級住宅地、オークパークを訪れます。

オークパークはフランク・ロイド・ライトゆかりの地です。彼は22歳の時、師ルイス・サリヴァンに借金して、ここに自邸を建てます。26歳で独立してからは自宅に事務所を増築し、42歳までここで精力的に活動します。その間200軒近い住宅を設計してプレーリースタイルという独自のスタイルを確立し、第一期黄金期を迎えます。そしてオークパークにも、現存するものだけで20件近い数の住宅を残します。ライトも初めはローカルな建築家だったんですね。

では、まずは彼の自邸から。
上の三角屋根のが自邸。当時ブルース・プライスらがアメリカ独自の住宅様式として提唱していたシングルスタイルに影響されているのが分かります。さすがのライトも若い頃は影響されたんですね。下が増築されたアトリエの外観。
室内は天井が低くて鴨居のようなものが内法高さでグルッと回っていたり、壁の色合いも土壁のようで、日本の家のような親しみやすさを感じました。

これは2階の三角屋根の部分にある子供たちのためのプレイルーム。鴨居は低くて1500㎜くらい。ライトは子沢山で、最初の奥さんとの間に6人の子供がいました。

ウィンスロー邸。1894年。ライトのデビュー作。
アメリカの広大な大地にふさわしい水平線が強調された軒の出が大きな屋根、階高が低いこと、地下室がないことなど、欧州を踏襲していた当時の家々にはない独自の様式と美学を備えていました。
これら皆ライトの設計。
なかには「ん?、これもほんとにライトなの?」というのもあります。

例えば、
こんなのとか。実は増改築のものもあるんですね。

中でも極めつけはハートレー邸ですね。
1906年の竣工で、この頃にはプレーリースタイルを確立し、オークパーク以外にも沢山の豪邸を作りまくります。ライトは39歳でした。

以下ハートレー邸。



以下、同時期にシカゴ市内に作られたロビー邸。


こんなキャリア絶頂期のライトでしたが、オークパークで依頼を受けたチェニー夫人という建主と恋仲になってしまいます。
これがそのチェニー夫人邸。ライトは妻に離婚を切り出しますが、聞き入れてもらえるはずもなく、1909年、ついにライトは妻と6人の子供を捨て、チェニー夫人と駆け落ちしてしまうのです。なんて奴だ...。
これは当然大スキャンダルに発展し、ライトはアメリカにいることができなくなり、全てのキャリアを捨てて、ヨーロッパに逃避行してしまいます。
ライトの波乱万丈な人生がここから始まりますが、今日はここまでにします。

続きはまた次回に。
(横内)